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【入門】伏見城★誰が建てて何年住んだ?3つも?清正の感動実話?

伏見城の遺跡が京都で発見されたニュースが話題ですね。
こちらではそんな伏見城のあれこれをご紹介します。
誰が建てて何年住んだの?
3つもあったって本当?
加藤清正の感動実話とはどんなもの?
怖!血天井とは?本当に人の血なの?など

 

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伏見城の遺構が発見

 

最初の伏見城とみられる石垣や多数の金箔の瓦片が京都市伏見区桃山町
のマンション造成地から出土したと発表されました。
この城は2年後の慶長伏見地震で倒壊後は所在が分かっていなかった「幻の城」。
今回の発見は城の存在を裏付ける初の出土例となりました。

 

【出典:Yahooニュース
天下人・秀吉の「幻の伏見城」石垣や瓦片出土 京都の造成地」】

 

 

実は伏見城は計3回も建てられており

 

豊臣秀吉が築き徳川家康が建てなおした名城

 

と言われます。以下では、そんな伏見城の歴史をご紹介します。

 

@秀吉による「指月伏見城」
A秀吉による「木幡山伏見城」

 

最初の築城は朝鮮出兵開始後の1592年8月に豊臣秀吉が隠居後に住む
ために伏見指月においてなされたものです。

 

1596年に完成をみるが、その直後の慶長伏見地震によって城は倒壊して
しまいました。
そして指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり
翌1597年に完成しましたが秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で
没しました。

 

後に木幡山に再築されたものは「木幡山伏見城」と呼ばれ区別されています。

 

  • 地震で壊れて再度建てられたが秀吉は合計2年弱しか居城としていない
  • ここは秀吉が「亡くなったところ」

 

秀吉の死後、その子の豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって徳川家康
がこの城に入り、政治を行いました。

 

そして「関ヶ原の戦い」
伏見城には家康の家臣の鳥居元忠らが守っていましたが、西軍に攻められて落城。
建物の大半は焼失してしまいました。

 

 

B家康による「木幡山伏見城」 
焼失した伏見城は1602年頃に家康によって再建され、その後江戸幕府の
伏見奉行所の管理下にありましたが1619年に廃城とされました。

 

 

 

・伏見城が建てられたのは「3回」(昭和期の再建は除く)
 それぞれ築城者は「秀吉・秀吉・家康」

 

 

そしてその跡には桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれるようになり、現代ではその経緯
から伏見城は「桃山城」あるいは「伏見桃山城」とも呼ばれるようになりました。

 

 

(参考:再建後の伏見城)
・伏見城跡は幕末まで立入禁止となっていたが本丸跡などの主郭部分はのちに
 明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため無許可での立入は禁止。

 

・1964年には遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され園内には模擬天守が
 鉄筋コンクリートで造られが、2003年に経営母体である近鉄のリストラの一環で閉園

 

・しかし模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり
 無償で京都市に贈与され敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備された。

 

 

 

伏見城にまるわるエピソード

 

 

「地震加藤」

 

明治2年に初演の歌舞伎の演目で正式名称は「増補桃山譚」
朝鮮出兵での行動が非難されて蟄居閉門中だった加藤清正が伏見の
大地震の夜に謹慎状態も厭わず、いの一番で秀吉のいる桃山城へ駆けつけ
閉門を解かれた、というもの

 

清正の忠義の心が感動を呼ぶ作品です。

 

ちなみにこの時の地震は、後年の研究で阪神淡路大震災を上回る
マグニチュード8に近い地震だった事がわかっています。

 

内容はこんな感じです。(虎とは加藤清正の幼名「虎之助」)

 

秀吉は混乱の中での暗殺を恐れ、女物の着物を着ておろおろとしていましたが
清正が前に来て平伏すると

 

秀吉「虎か、よう来た、よう来た。一番早かったぞ。
   流石は子供の頃から手塩に掛けて育てただけはある
   そなた、暫く会わぬうちにやつれたのう」

 

それを聞いた清正は堪えきれず、堰を切ったように号泣しました。
母一人で育てられた清正にとって、秀吉は父親、もしくはそれ以上の存在だったのです。

 

 

血天井

 

関ヶ原の戦いの時の落城の際に鳥居元忠ら380名以上が自刃

 

それらの遺骸は関ヶ原の戦いが終わるまで約2ヶ月もの間、伏見城に放置され
その血痕や顔や鎧のあとが縁側の板に染み付き、いくら拭いても洗っても落ちなく
なった。

 

そこで縁側からその板を外し供養のため寺に移ししその際に
「床を足で踏む床板にしては供養にならない」からと、天井にして手厚く供養した

 

いわゆる「血天井」として京都各地(養源院・源光庵など)に現存しているものが
それと言われています。

 

(注)
血天井について史料・考古学的に裏付けられたものは存在しません。
ただし正伝寺のものについては古畑種基が人間の血液であることを鑑定しているが
古畑が関わった血液鑑定には数多くの疑惑・誤りが指摘されており
同鑑定についても全面的に信頼するのは危険である。

 

ちなみに通常床板には1寸(約30mm)以上の厚みの材を使用するため、これを
そのまま天井に再利用するのは難しく、薄く削り直す必要があるが、このような再加工
は江戸時代までの加工技術では非常に難易度の高い作業である。   

 

【出典:「Wikipedia血天井」】

 

 

ちなみに「源光庵」のものはこれです。

 

 

くっきり足の形が残ってますね・・。逆にはっきりし過ぎていて眉唾もの?
とも言えるかも。どう思うかはあなた次第です。

 

【出典:「京都、戦国武将の悲劇の遺構「血天井」を巡る旅」】

 

 

最後に、これは「間違いもの」として伝わるものです。

 

伏見城の現存する遺構

 

御香宮神社表門(伏見城の大手門を移築したものと伝わる)

 

豊国神社唐門(伏見城の唐門を移築したものと伝わる)